鳥越憲三郎

例えば黄河流域を中心とした地域では、耐寒・耐旱性の粟の畑作農耕が営まれ、住まいも地炉のある竪穴式住居を基本とした。これに対し長江流域を中心とした地域では、水稲農耕が行われ、増水や洪水から炊事の火を守るために高床式住居が考案され、炉は高床面に設けられた。 そして稲作民族にみる高床式住居の特徴は、高床の上が家族の生活空間で、その高床の部屋には必ず履き物を脱いで上がることである。たとえ跣の生活であっても、梯子の昇り口か部屋の入り口で足を水で洗うか布切れで拭くかして、屋外と屋内とがはっきり区別されている。これに反して北方の竪穴式住居の住民は、平地式土間式住居に移行しても、屋外と屋内の区別なく土足のまま出入りする。如上のことは両地域にみる顕著な事例を示したものであるが、それぞれが独自な文化を形成する結果となった。   長江を原住地とする倭族たちは、戦争や迫害で長江流域の山岳地帯をはじめ、西ではインド、ネパールの東部に、南ではインドシナ半島の全域から、さらにインドネシアの諸島嶼に渡り、また東では朝鮮半島中・南部から日本列島に逃避し、その移動分布はあまりにも広域に及んでいる。そして今では多くが少数民族と呼ばれる境遇にあるが、移動先で古代国家や近代国家を建設したものも少なくない。